有休は年に一日ずつ増えていき,今年ようやく二桁取得することができた。
とりあえず昨日は半休と振休を組み合わせてちまっと消化し,突然の休みに備えているところ。
美容室のお兄さんに教えてもらった近くのラーメン屋さんで中華そばを食べながら,中高の演劇部の同期に連絡を取ったらその日のうちに会うことができた。
私は人生はタイミングと覚悟だと思っているので,それが合うとうれしい。
名前は知っていたけど行ったことのない喫茶店へ入った。
中高の同期なので,13歳になる年からつかず離れず,お互いが辿ってきただいたいのルートは知っている。
だけどどんな恋愛をしているかとか,今まで話したことがなかった話題も今までたくさんあった。大人になって,特に20代後半になって,いや28歳になって,ようやくまともにそういう話をするようになった。それは年齢がというよりは,経験が積み重なるに従って喋れるものが溜まってきたのだと思う。
彼の話はとても面白かった。
最近私について考えてもらえる機会が他にもあって,彼もまた私と話をしながら私のものの考え方について考えてくれた。
「カサハラさんは言語化に意識が行っていて,言語化しないとそれがないもののように感じるのかもしれない。」というニュアンスで,彼は私に話をしてくれた。私が,『今付き合っている男性の,顔とか,肩書きとか,そういうものがいいなと思って付き合っていたとして,それを全部はがしていったら,最後に何が残るのかわからない』と言ったのを受けての言葉だった。
あぁー。そうかもしれない。
言葉にすることは,もちろん大事。見えないものや形のないものにラベルを貼ってあげるのだから。海の水をコップに収めてあげるのと同じだと思う。
だけど海の水全部をコップに収めてあげることなんてできるのだろうか。そしてもしできなかったとして,残った海の水はないことになるのだろうか。残った海の水にも,ちゃんと意味や価値があると思えるだろうか。存在として認められて,それでおっけーになれるだろうか。
そんなことを考えている。
私に無いものがその人にあれば,それはなんだかまぶしくて,キラキラしてて,素敵に見えて,近づきたくなってしまうのだけれど,
私が持っていないものに近づくとなると,持っているひとと同じところに立ちたくて,ハイヒールを履きたくなってしまう。
最初はうれしかった。私にもハイヒールが履けるんだとか,履くとこんなにも世界が違って見えるんだとか。
だから言われた。「君はハイヒールとぺたんこ靴の両方を持ってるからいいんだよ」って。その人としては,相応の4cmヒールじゃないところが多分良いらしい。危ういところが良いらしい。だからハイヒールを履く私に似合う服を着なよって。
確かに,10年前の自分は高い服やハイヒールを身につけたくて必死だった。そうじゃないとその世界には踏み込めなかったから。
今だって,高い服やハイヒールにあこがれはある。
だけど,最近は時々,4cmヒールを履きたくなるのだ。いや時々というか,4cmヒールで許してくれる,4cmヒールがいいと思ってくれる服を,着たいのかもしれない。ハイヒール履きたくなったら履いていいよじゃなくって,4cmを履いてくれって服がほしいのかもしれない。
私,外反母趾になりつつあるんだもの。このままじゃ痛い。
そんなことを考えさせてくれた同期の彼に,感謝なのだわ。
前よりちょっぴり,生活が豊かになっているのは同期も私も感じていて,それってうれしいことだよねと共有しあえたことが,幸せだった。そうだ。幸せになってくれ同期よ…。
脱線しました。でもそういう記録。
この写真がずっと好きで。あぁこの頃外反母趾なんて全く無縁…。
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