Tuesday, June 16, 2015

表象機能の発達と演劇における見立てについて。

最近書きたかったこと,ようやく文章化できた!相変わらずとっちらかってるけど。ご興味あれば,お付き合いください。

今回のお題は【表象機能の発達と演劇における見立て】について。思うところをつらつら書きたいな~と思います。

◎もくじ◎
 ◆はじめに
 ◆“演劇の強み”がある舞台に必要なもの
 ◆NODA・MAPの『THE BEE』(再演)Japanese versionパンフレットより
 ◆再度主張
 ◆「見立て」は誰にでもわかるのか
 ◆まとめ

でお送りしたいと思います。
長いので区切ります。続きはぴっとクリックしてくださいまし。



◆はじめに
10年位前に,『セカチュー』という作品が流行りました。『世界の中心で愛を叫ぶ』という作品です。小説から始まり,漫画,映画,ドラマにもなりました。そして私が東京へ舞台を観に行った時,パンフレットに挟まっていたフライヤーの中に「舞台版セカチュー」が入っていました。私はそれを見て,なんとなくげんなりしたのを覚えています。どこまで“○○化”すれば世の中気が済むのだと思って。

そして当時高2の私は思いました。(舞台にする必然性ってあるのかな?)と。

それ以来,何となーく,“舞台である必然性”について考えています。テレビドラマ,映画,アニメーション…。さまざまな表現方法がある中で,“演劇の強み”とは何なのだろうかと,考えています。


◆“演劇の強み”がある舞台に必要なもの
それから数年後,(これこそ演劇の醍醐味!!!)と思った作品に出会いました。世田谷パブリックシアター+コンプリシテ共同制作の『春琴』です。2008年に初演を迎え,以来最小限のキャスト変更を経て,計4回くらいかな。公演がありました。日本のみならずニューヨークやパリにもツアーで回ったそうです。私は初演,再演,再々々演を観ました。おそらくこれは,私の人生の中で最も影響のあった作品に入ります。まだ人生長い(と思う)けど,本当にそう思ってます。

ストーリーがとても素敵でした。
役者の力も申し分ありませんでした。
でもそれだけじゃない。それだけじゃない魅力が,この作品には溢れていました。
例えばそれは照明の暗さだったり,役者達が紙をペラペラとなびかせて集めたものをスクリーンの代わりにしている…だったりと,要素はいろいろあるのですが,特に“空間”は,演劇でないと成立しないものがあるなと思いました。

1本の棒。1本の棒を,一人ずつ持って,キャストが舞台を縦横無尽に動く。それだけで空間が仕切られ,「場」が生まれる。そんな光景が舞台上にありました。例えば棒は,組み合わせによって居室になったり,そよぐ松の枝になるのです。

これは,同じ空間を共有する観客が想像力を働かせて,その道具を今目の前にない何かに見立ててとらえる作業が必要です。その作業ができなければ,何が起きているのか,何を表しているのかをキャッチすることは難しいのだろうと思います。


◆NODA・MAP『THE BEE』(再演)Japanese versionパンフレットより
2012年の再演で,よーやく観られたこの作品。『THE BEE』のパンフレットを読んでいて,びびびっときた文章がありました。野田さんが巻頭で書いている「小道具礼賛」という文章です。一部をちょっと引用させていただきます。

“芝居の世界では,そうした小道具の使い方を「見立て」と呼ぶ。私は近頃ますますもって,「見立て」こそが演劇の根源的な力だと思うようになってきた。
芝居における男性による女役,或いはその逆,女性による男役が,すんなりと行くのは,舞台は「見立て」ることができるからである。《中略》(映像で仮に男が女を見事に演じたとしても,それは女装として成功している男でしかない)
さらに言うなれば,舞台上では,何もないところにも何かがあるかのように見立てられる。”

舞台だからこそ「見立て」が通り,映像では成立しない…というところ。演劇は小道具がとっても重要なのだというところ。激しく同意しながら読みました。


◆再度主張
だから,改めて。
私は,舞台の上で,それが演劇である必然性のあるものを観たい。舞台でしか出せない光とか,舞台でしか使えない装置とか,そういうものでもいい。小道具で魅せられてもいい。演劇という手法で,心をときめかせたい。ワクワクしたいし,ドキドキしたい。ムズカシーって,考えたい。

心を揺さぶられたい。


◆「見立て」は誰にでもわかるのか
最近特に気になるテーマ。私の今の仕事の話もちょろっと織り交ぜて進めたいと思います。

見立てに必要なのは「表象機能」。わかりやすいカタカナにすると「イメージ」。わかりやすい言葉にすると「今ここにないものを思い浮かべる力」…みたいになるのかな。
赤ちゃんには,最初はこの力はありません。養育者の姿(主に母親)が見えなくなると,不安になって泣いてしまったりします。「いないいないばぁ」の「いないいない…」で顔を手で覆うと,本当に赤ちゃんにとっては目の前の人がいなくなってしまうのだとか。だから姿が見えると(あ!顔あった!)ってなって泣いていたのがケロリ…とか。
そして,養育者の姿が今目の前に見えなくても思い浮かべることができるようになることで,子どもは不安に耐えられるようになるのです。

しかし,この「思い浮かべること」が苦手な方々がいます。ASD(自閉症スペクトラム)と呼ばれる方々がその代表です。彼らはたとえ話(ものごとの置き換え)が苦手だったり,言葉を字義通り受け取ってしまいがちだったり…。そして他者視点に立ってものごとをとらえることも苦手だったりします(自分だったらどうするか,○○さんだったらどうするか…とか)。
なので未体験のことについて「もしこうなったらどうするか?」と聞かれても「そうなったことないからわかんない」になったり,算数の文章題なんかで式を組み立てることが一苦労だったりします。

だから,そういった特性を持つ方に「見たら見立てだとわかるのか」と聞かれたら,難しいだろうなと思います。彼らにとって今そこにあるものが全てだとしたら…例えば,『THE BEE』だったら,鉛筆がへし折られてもそれは「鉛筆が折れた」という事実だけで,「子どもの指が折られたことを意味する」ということに自発的に気づける方は多くないのだろうと思います。
そう思うと,見立てを見抜く,モチーフを読み解くという作業は,とても高次な作業だなぁと思う訳です。

(特に,高機能自閉と呼ばれるお子さんは,ギャグ漫画が好き…という印象を個人的に持っています。あくまで個人的に。これは,彼らの特性である「聴覚より視覚からの方が情報を取り込みやすい」ということだったり,状況の変化などを「見たまま理解できる」という点が彼らの心にフィットしているのでは…と思っています。)


◆まとめ
…たいと思っているのですが,着地点が見つかりませんすみません…。
本当に箇条書きにすると,

  • ないものをあることにさせたり,1つのモノに複数の意味合いを持たせられるのは演劇ならではの手法。
  • 見立てをとらえられるということは,心の作業の中でもかなり高次なもの。
  • しかし演劇が万能なのかと言われたら,そうではない。何をどうキャッチしたら良いかわからない人もいる。

ということでしょうか…。

すみません。要約が苦手です。でも,私が今回書きたいことは,こういうことです。
最近のカサハラさんは,演劇×発達×心理という数式で表せるっぽいです…。

相変わらずとっちらかりの書き逃げですみません。論文を発表してるニンゲンが書いたとは思えない文章ですね。←
博士課程に行くことがあるのなら,発達のエッセンスも盛り込みたいなと夢見る今日この頃です。

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